同居していた義理の母が亡くなって、今年は2回目のお盆がやってきます。
子どもにとっては、一緒に遊んでもらっていたおばあちゃんを亡くしたわけですが、年齢的に「死」というものをどう考えているのかは、今はわかりません。
聞いても、本人がきちんと言葉で気持ちを表すのが難しい年齢でもあります。
うちでは、同居していたのでそのままを伝えることは当然ですが、火葬場にも連れて行ってお骨も拾わせましたし、すべての儀式にも参列させました。
夫の兄弟から、火葬場に連れて行くことはやめた方がいいのではないかと言われましたが、「生きて死ぬ」ということは、特別なことではなくて日常の一部なんだということを知ってもらいたくて、あえて連れていきました。
「死」について子育て中に親の気持ちを伝えたい、でも、難しいテーマのひとつでもあります
何もないのに、急に「死」について話す必要はないと思いますが、親として聞かれたときや話す機会がめぐってきた時に、あたふたせずに伝えるのはとても難しいことだと思います。
言葉だけで伝えられるものでもないと思いましたし、自分の中に、きちんとした答えが見つかっていない場合も簡単にできることではありません。
あやふやなままでもいいと思うのです。
ただやみくもに不安にさせたり怖い思いをして、その気持ちをずっと持ち続けるのもつらいと思うのです。
悲しくてもどう受け入れるかのヒントになる絵本を思い出しました。
今日の絵本 「はなやのおばさん」
ねじめ正一・文 大島妙子・絵 童心社
大きくなったらはなさんになりたいみどりちゃん。
商店街のはなやのおばさんとおじさんとは仲良しです。
ある日、いつも花の種をくれるおじさんが亡くなり、はなやもシャッターがおりています。
しばらくすると、はなやのおばさんがまたお店を開いていました。
おじさんのかわりに、おばさんがみどりちゃんに花の種をくれました。
日常の中で淡々と表現されている「おじさんの死」。
子どもの目から見た、行き慣れたお店がしまっているという不安。
その気持ちが絵の色合いでも表現されていて、子どもにもなんとなく察することができるように描かれています。
難しいテーマですが、「死」という日常の現実をおはなしと絵とで「そのまま」を伝えている絵本です。
そのまま伝えて、頭で考えて納得するのではなくそのまま受け入れて、そして日々は流れていきます。
義理の母がなくなってから、子どもが学校の図書室から借りてきた絵本ですが、どんな気持ちで読んだのか、私はいまだに聞いていません。
大げさでもなく、我慢するでもなく、あるがままに受けとめるということの大事さ
家族を亡くして何とも言えない悲しみは誰でももちろんあります。
泣きたければ泣いてもいいのだし、我慢することはありません。
でも、初めて一緒に暮らしている人を亡くしてみて思ったのは、悲しみと日々の生活は別々ではないのだということでした。
悲しくても、そこで立ち止まっていることは現実には無理です。
子どもや家族に3食用意して、弔問客があればお茶を出し、葬儀社の人の話を聞かなければなりません。
夫も、はじめこそ涙を見せていましたが、お通夜のために家の中を片づけなければならず、悲しみをこらえていました。
そういうことも含めての「死」という説明しがたいものを、やはり子どもでも目で見て肌で感じて理解して欲しいと私は前から思っていました。
人が亡くなることは一大事ではありますが、大げさなことではなくて、でも、気持ちを抑える必要はなく、そのまま、あるがまま、毎日過ごしていくことの中にあるのだということを、子どもには知ってもらいたいと思います。
お盆には、そうしたことも振り返って考えてみるといいかもしれませんね。